こんにちは。ずいぶんと御無沙汰しておりました。
今回は今年5月17日に長崎市の天然記念物に新しく
指定されました牧島のハマナツメ群落を紹介します。
ところで、皆さんは「ハマナツメ」という植物を
知っていますか?
葉の形がナツメに似て(果実じゃないんです)、樹木
では珍しく海浜部近くに生息するところからその
名前がつけられました。
環境の変化に敏感で、海が汚れたりすると生育できなく
なり、限られた場所でしかその存在は確認されていない
ため、環境省などの絶滅危惧種とされています。
7月から8月にかけて多くの枝分かれした先端部に小さな
淡い黄緑色の花をつけます。
しかし別名トリトマラズというように、可愛らしい小さな
花にはおよそ似つかわしくない堅い鋭いとげが生えていて、
花に気を取られうっかり手を出すと刺さりますので要注意
です。
また、キリストの冠はこのハマナツメで作られたという
伝説があり、英名を『Christ’s-thorn=キリストのトゲ』
といいます。

さて前置きが長くなりましたが、牧島のハマナツメが
どこにあるのかといいますと…
牧島へとかかる橋を渡り、島の奥へ奥へと車を走らせる
こと5分(そんな奥じゃないですね)。弓状に曲る岬の
先端部に生い茂る木々と住み分けるようにしてハマナツメ
が根を下ろしています。
残念ながら先日の台風で多くの花が散ってしまいましたが、
花の落ちた後になる実も可愛らしく、上から見たら花に、
横から見たらカップをひっくり返したような形をして
います。
この実はコルク質で水にぷかぷかと浮くため、海に落ちて
根を下ろす地を探し波間を漂うのです。牧島のハマナツメも
広い海を旅してこの地にたどり着いたと考えると何だか
ロマンチックですね。

ちなみにこのハマナツメ群落のすぐ隣には「国指定史跡
曲崎古墳群」があります。長崎市内唯一の古墳見学スポット
で、この場所には5世紀から7世紀の間に作られた、実に
101基もの積石塚が存在しています。
ハマナツメの可憐な花を眺めながら古に思いを馳せてみる
のもいかがでしょうか(来年にでも…)。

牧島ハマナツメ群落周辺地図≫
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=32.75271108472031&lon=129.98739238350717&z=16&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=32.75271108472031&hlon=129.98739238350717&layout=&ei=utf-8&p=

国指定史跡曲崎古墳群≫
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/bunkazai/bunkazai/bunkazai/133.html


 縄文時代からの歴史の痕跡を残す深堀地区。江戸時代には佐賀藩深堀領として栄え、深堀陣屋跡や武家屋敷塀の佇まいに、当時の名残がみられます。

 この深堀地区にある深堀貝塚遺跡資料館は、深堀遺跡の発掘調査で出土したものを使って昔の深堀の様子を展示しています。今回展示の内容を新しくしたので、少しご紹介します。
 
 深堀遺跡では、縄文時代から弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉〜室町、江戸時代に至るまでの各時代の遺物が出土しました。出土したものは、土器や石器、陶磁器の他に、煮炊きをしていた炉の跡や、様々な形のお墓などで、途切れることなく、現在までの生活の跡が分かる遺跡は、大変珍しいそうです。
 中でもお墓を見てみると、穴を掘り亡くなった人をそのまま葬る「土坑墓(どこうぼ)」、棺に石を使っている「石棺墓(せっかんぼ)」、独特のお墓である「甕棺墓(かめかんぼ)」など様々な葬り方があり、当時の暮らしが今とずいぶん違うことが分かります。

 資料館に展示してあるのは、出土品だけではありません。それらをどうやって作っていたのか、またどんな使い方をしていたのかを紹介しています。例えば、縄文土器の文様の付け方を想像できるよう、木の棒や、縄、貝殻を使って模様を付けた粘土板を展示しています。展示品をただ眺めるだけではあまり面白くないかもしれません。けれど、そのとき生きていた人が試行錯誤しながら作った様子を想像してみると見え方が変わるかもしれませんね。

 深堀貝塚遺跡資料館にぜひ足を運んで、深堀地区の歴史や発掘調査のもようを知り、昔の人たちの暮らしぶりを思い描いてみませんか。

【深堀貝塚遺跡資料館】
 所在地=長崎市深堀町5丁目165(深堀支所より徒歩1分)
 開館時間=9時〜17時
 休館日=12月29日〜1月4日
 入館料=無料

《交通アクセス》
@「長崎駅前南口」バス停から長崎バス「深堀」行き、「香焼恵理」行きのバスで「鍛治町」バス停下車徒歩5分
A「香焼本村」バス停から長崎バス「長崎駅前」行きのバスで「鍛冶町」下車徒歩5分




こんにちは。
今回は、日吉地区で今に受け継がれている市指定民俗文化財「飯香浦地蔵まつり飾りそうめん」「太田尾地蔵まつり飾りそうめん」をご紹介します。日吉地区は長崎の中心部から車で南におよそ20分。夏の空と青い海、その奥に見える天草諸島の眺望が大変美しいところです。

「飯香浦地蔵まつり飾りそうめん」「太田尾地蔵まつり飾りそうめん」は、いずれも毎年7月23日、24日に行われています。祭りが始まった時期ははっきりしていませんが、地蔵信仰と念仏講が結びついたものと考えられています。

「飯香浦地蔵まつり飾りそうめん」は4〜5人でおよそ3時間かけて、約15sのそうめんを複雑な工程で編んで、慢幕と鎧兜1対をつくります。生のそうめんを使うため、乾燥しないよう、手早く編み上げなければいけません。慢幕は一本の棒にリリアン編みと呼ばれる様式で編んでいきます。鎧兜は、木と紙による枠に上下に分けて生そうめんと紙と元結いを使って編みます。

「太田尾地蔵まつり飾りそうめん」は、生そうめんで男女といわれる一対の人形(ひとがた)を編み上げて地蔵様に奉納します。各3人で約3時間かけて、外気を遮断してつくった後に、宮上がりに行列を組んで地蔵堂へ運びます。

「若い人に技術を受け継いでもらうよう指導していますが、年1回のお祭りのときだけではなかなか難しいですね〜」と編み上げたそうめんを温かく見つめる飯香浦成尾地蔵まつり保存会代表の峰さん。飾りそうめんの技術は、江戸中期ころに始まったといわれ、小麦の産地でもないこの地区に、そうめん編みの技術が伝承されているのは、大変珍しいそうです。そうめん飾りもさることながら、地域の人たちの和気藹々とした雰囲気も印象的なお祭りです。



こんにちは。
今回は、平成19年5月1日に市の指定文化財に仲間入りした「大波止の鉄玉(おおはとのてつだま)」をご紹介します。

 皆さん、元船町の真ん中にひっそりと佇んでいる「大波止の鉄玉」をご覧になったことはありますか。まちの真ん中にあっても意外と気付きにくいかもしれません。

 この鉄玉は長崎七不思議の一つ「鉄砲玉(てっぽんたま)」という名前で知られていて、「大波止に玉はあれども大砲なし」と謡われてきました。島原の乱(1637〜1638)の際、唐通事の穎川官兵衛(えがわかんべえ)により、または穎川官兵衛の指示により、大砲の玉として造られたといわれていますが、由来については諸説あり、はっきりとはわかっていないのです。

 鉄玉のことをご存知なかたは、なぜ「鉄砲玉」という名前で指定しなかったのかと疑問に思われるかもしれません。江戸時代の記録を見ると「鉄砲玉」以外に「玉」「鉄丸」「鉄玉」「鉄丸玉」「石火矢玉」など、呼び名も様々です。

 ここで、鉄玉の寸法と重量をご紹介します。
 全周は約175cmで、重量は、寛政四(1792)年の記録によると、147貫920目(約554.7kg)とされています。玉の体積と比較すると、この重量は鉄球にしてはあまりにも軽いそうです。丹羽漢吉著「史談切り抜き帳」には、鉄の比重と重量とを比較して、玉の内部が中空になっているか、錫などが混ざっている可能性があること、玉が非球体であることが書かれています。 

 このことから、実際には弾丸として使われていなかったのではないか、とも考えられていて、「砲」に使った玉とはっきりいえないことがわかります。「鉄玉」という名称は、長崎の正史とされている「長崎実録大成」の中で使われていて、文化財として指定をするにあたり、その名称として決定しました。

 文化財として大切に守られていくことを、「大波止の鉄玉」自身もきっと喜んでいるに違いありません。
 これを機会に、ぜひこの鉄玉を見つけてみてください。
 そして、まちの新しい顔として、より一層皆さまに親しんでいただけると幸いです。


平成18年6月29日
こんにちは。今回は香焼地区の文化財のご紹介です。
皆さん、香焼という名のはじまりは知っていますか。弘法大師空海がこの地を訪れたことから始まります。空海は平安時代初期の僧侶で、唐に渡り護摩密教(ごまみっきょう)を学び、日本に戻ってからは高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)を開きました。遣唐船に乗って唐に渡る際、暴風に遭いこの島(かつて、香焼は2つの島でした。)に立ち寄ったそうです。空海は、仏に感謝し、祈りを捧げる際に必ず香を焚いたと言われていますが、この地でも同様に香を焚き、その時の薫りが洞窟内に染み渡ったので香を焚いた山を香焼山、島を香焼島と名づけたそうです。
さて、この香焼山に空海が開いたという香焼山圓福寺(えんぷくじ)があります。今回は、この圓福寺にある文化財についてご紹介します。
香焼地区にある7つの指定文化財のうち4つを圓福寺が所有しています。元禄5年(1692)の紀年銘が残る梵鐘(市指定有形文化財「圓福寺の梵鐘」)、延享3年(1746)香焼付近で遭難した唐船の犠牲者を祭った供養塔(市指定史跡「唐人海難者改葬供養塔」)、即非如一禅師の書(市指定有形文化財「即非禅師書憩香山岩謁(そくひぜんじしょいこうこうざんがんのげ)」)、このほか市指定有形民俗文化財「香焼の鰯網(いわしあみ)関係資料」のうち”六地蔵石幢”と”石燈籠”もここにあります。「香焼の鰯網関係資料」は、1770年代頃からの香焼と防州(現在の山口県徳山市付近)との関わりを示す資料で、当時多くの防州出身者がここに来て鰯漁をしていたことがわかります。防州の人たちは、季節毎に来島し、鰯を干鰯(ほしか)にし、田畑の肥料として瀬戸内や関西方面に出荷していたようです。
さて、この鰯漁に関連して、もう一つ有名なお話があります。
今から約200年前、長崎の出島で貿易業務を終えたオランダ船「エリザ号」は、長崎港外で暴風雨に逢い座礁して沈没しました。時の長崎奉行朝比奈河内守(あさひなかわちのかみ)は、このオランダ船の引き上げを地元の人々やオランダ人に依頼しましたが、ことごとく失敗。最後に依頼した防州出身の網元村井喜右衛門(むらいきえもん)によって見事引き上げられました。当時、この話題は欧米にまで広まったそうです。
なお、この引き上げの際に用いた仕掛けの模型が香焼図書館に展示されていますので、香焼地区へお越しの際は図書館へ立ち寄ってみるのも香焼の魅力を満喫する一つの方法だと思います。
伝説にはじまり1200年、香焼山圓福寺を訪れて時の流れを感じてみるのはいかがでしょうか。

写真は市指定有形民俗文化財「香焼の鰯網関係資料〜石燈籠」です。
寄進者は「長門屋庄右衛門」(防州出身)
防州との交流を語る貴重な資料です。当時、菜種油を利用していたため火袋の内側が黒く変色しています。